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page a-12  咲きほこる花あれば、破れちる花あり

霧雨ふく半蔵門、
連休最終日ということもあってか、
街は台風の前のような静けさを帯びている。
はじめて入った国立劇場はしっとりとした印象。
そんな空間の空気ひとつで、
身体も顔つきもなんとなく、やんわりなってしまうのだから、
人はどこの世界に身をおくかで、
なりたいと思えばどうにだってなれる気がする。





今日は日舞をはじめた、ぐまちゃんの発表会。
お着物で来場されている方も多く、
出場しなくとも空間に花をそえるようにして、
愉しんでおられるような気がします。
それはもう、セレブとかいってひやかす次元をはるかに越えた、
伝統ある、格式ある、老舗の空間です。

暗転から光がひろがった時、
舞台の中央にすっと立っていたのは、
まるで、ほこり高く天にのびる、でも、恥じらいものぞかせる可憐な花。
白塗りの化粧をし、眩しいばかりの甘夏色のお着物に包まれ、
傘をかざして佇んでいる彼女は、そう、花のように綺麗。
20分も続く長唄と三味線に合わせ、しなやかな仕草で踊る。
はじめっから、「きれい!」の感動があまりにもショッキングで、
予期せぬ涙がぼろっぼろっと、ひたすら落ちた。



親友の結婚式はこんな感じかもしれない。
ただでさえも、まぶしい美しさは、
個人的な思い入れのやすりでさらに磨かれ、
どんどんとキラメキを増していくのだ。
地元のスーパーで一緒にウインナーを試食した、ぐまちゃん、
塾をさぼってうまい棒をブランコで一緒にかじった、ぐまちゃん、
おそろいの手作りワンピースを着てた、ぐまちゃん、
罰ゲームでティッシュ配りの着ぐるみに握手をせがんだ、ぐまちゃん、
ああ、、、立派になられて!

ぐまちゃんは踊りの途中で早着替えも魅せてくれた。
甘夏色の仕掛け着物の下は、情熱的な赤い着物であった。
これまたとても舞台に映えていて、涙の量を足したのであった。
お唄の方々が声をいっそう震わせ張りあげる頃、
彼女は蝶々にさそわれて、客席に伸びた花道を舞って姿を消した。


あ、ありがとう、ぐまちゃん…。


日本の伝統文化の美しさを改めて思う。
それから、着物の魅力も。
古くから生き続けている美しいもの。
科学がどれだけ進歩しようが、どれだけ人が頭も心も甘やかそうが、
それらが与える人間の本質的な歓びや、それを感じとれる美的感覚は、
時代を越えて、そんなに変わっていない気がします。
京都とパリ(歴史の長い欧州全体)びいきという、矛盾したようなわたしの興味も、
「昔から生き続ける美」だとか、「独自の(頑固なまでの)審美眼」
に対する興味という点で一貫しているな、
と今、自分で書いて納得して、あーすっきりした、と思っているちょうど最中。





前日にジャームッシュの「ブロークンフラワーズ」を観ていました。
ビルマーレイが過去の恋人たちに持っていく花束が、
みごとに色褪せてうつるとき、
あの時の輝きは、あの時だけのものだという、
受け入れがたい事実に、静かにためらうのです。
花は破れちるからこそ、咲きほこる一瞬が美しい。
無くなる哀しさを知っているから、
抱きしめて繋ぎとめておきたいほど「今」が愛おしい。


それにしてもわたしの好きな映画にはよくビルマーレイがでています。
(ウェスアンダーソン好きだから?)
だってビルマーレイ、なんにもしなくても、
ゆるくって、つかれてて、こまってて、ださくって、だめだめーってかんじ、
でもすっごい人間っぽいもんね。すきです…。
マシュマロマンを倒したバスターズ時代の若々しさはもうなくっても、
その時、その時の味と輝きをもっています。
人は、咲いただの散っただのという一連に続く花であるというより、
年々、違う花になっていくのではないでしょうか。


film「ブロークンフラワーズ」
by akiha_10 | 2006-05-11 01:02 | Art
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