<< ニューヨークジャーナル 167 >>

ニューヨークジャーナル 168

ニューヨークジャーナル 168_a0028990_216463.jpg


NYらしい、すてきなできごと。長年好きなアクセサリーブランドのひとつ、NY発LuLu Frostのセールに行ってみたら、その会場はLuluのNYヘッドオフィスであったこと。そして、オフィスで物色中に、わたしが既に身につけていたLuluのブレスレットを見たスタッフが「それ、素敵なブレスレットね。わたしがデザインしたのよ、ふふふ」と話しかけてくれた方、その方がまさにデザイナーLulu本人、Lisaであったこと!Luluは日本でも取り扱われており、リサは仕事で度々訪れる日本がとても好きなこと、日本人が最高に親切であること、Luluは小さいころのあだ名であること、ジュエリーブランドはおばあちゃんの代からやっていること、などを話してくれた。



ニューヨークジャーナル 168_a0028990_2173266.jpg
興奮して、ミーハーにも写真撮影。オフィスも商品もどうぞ撮ってね、とおっしゃられたので遠慮なく。"Style Blog"をやっているの?どうぞなんでも載せてね、とリサ。スタイルブログ、、、などというかっこいい響きのものでもないし、おまけにこの放置ぶりの怠慢、、という後ろめたさもあって、写真を撮らせて頂いたからには載せます!、とブログへ再び向かわせてくれたリサ。Thanks Lisa!



日本とNYを行ったり来たりする生活を約4年の間で繰り返して、何かを買うときに常にスーツケースの事を考えるようになった。スーツケース1つで生きる気持ち(あくまで、気持ち)で、かさばるものはその後譲ったり捨てたりが出来るかどうかなどという、そのモノが辿るその後の運命について考える癖がついた。その点からすると、アクセサリーの手軽さは靴や帽子やバッグよりも優位である。昔から好きではあったが、わたし好みのガラクタ紙一重の素敵なアンティーク(風)やヴィンテージ(風)のお店、フリマにNYでたくさん出会えることも手伝って、この4年間でアクセサリーが増えた。センスのよいセレクトショップで当たり前に素敵なもの(そして当たり前にいい値段であるもの)を与えられるより、ガラクタ市から自分のとっておき、わたしが美しいと感じて執着するもの、を掘り起こす事は毎日何時間やっても飽きない趣味である。なにより、日常生活で視界に入ったり手に取ったりする度に買った時のストーリーと情景を鮮明に思い出せるモノを身に付けたり、そのモノと暮らす、という事は自分にとってかなり重要なことで、豊かなことなのだ。







ところで、たまに留学を検討している方からブログを見てメッセージを頂いたり、NYでたまたまお会いした方がブログを読んでくれていたりする。”NY”というキーワードで繋がる縁があって嬉しい。それぞれのNY観ーNYと生活、NYと経験、NYとキャリア、NYと人生ーを話していると内容の濃いオムニバス映画(NYというチェーンで繋がっている)を観ているような感覚に陥る。(映画”NY, I love you”の登場人物全員がNYに来た外国人バージョンで映画を作ったら面白いのに、と思っている。)NYはいつでも恐ろしいほどに素敵な場所だ。あなたが素敵と感じる心さえ持ち続けているのであれば。熱中しているもの、夢、目的、仕事、学習があるか、もしくは、例えば目的を持たずに散歩をしたりするゆったりとした充分な時間があって(NYはお金をかけずに楽しむ方法もたくさんある)それを豊かなことだと思えるか、または仕事は生活のためと割り切っても街に溢れた事柄(音楽やアート、スポーツ)に興味があり、それを叶えてくれるある程度の経済力なり時間なりのバランスがよく取れているか、パートナーとの出会い、などがNYに居続ける理由の一例だと思う。同じ生活費であれば、安全面、衛生面、インフラ、食文化など、エンターテイメントやアートシーンを除く、ごく普通の日常生活の質が高いのは圧倒的に日本であるから、それを優先して選ばない代わりの何かを自分で持ち続けられるかどうかが重要なのだ。


NYのすべてが楽しいばかりの1,2年を経て、去年はNYで将来「住み続けられるのか」を見据えてキャリア的にも色々と新しいことにチャレンジし、めまぐるしく過ぎていった。ずっと住むことを前提とするとNYの景色はまた変わり、精神的にもシリアスになりチャレンジに全てのエナジーは注がれきってその結果、街に対する好奇心があるようでないようなよく分からない状況に陥った。チャレンジすることは良いのだが、それがNYである必要があるのかという疑問を感じずにはいられないポイントに立った。このすばらしい街を楽しむ気持ちや、創作する意欲が減っていく中でそれでもNYに居る必要はあるのだろうか。何のためにNYに居るのかを半ば意固地に自分に言い聞かせるように、また自分にクリエイティヴィティ、その欲があった事を忘れないために、課題のように週数本ペースで芝居を観に行ったが、自分の中ではち切れそうなモノを抱えていたと、冷静に振り返るとそう思う。好奇心というものは、いつでも当たり前に自分が携帯している先天的に備わったものだと思っていたが、体力的精神的に弱まるとこんなにもスケールダウンするものかと驚いた。もちろん食欲だけは衰えなかったが。いつもライヴで歌ったり話したりする、機嫌よく生きる、といテーマを昨年ほど試されたことはない。毎日のように考えた。3ヶ月前より半年前より状況は少しずつ確実に良くなっている、あと1年、2年踏ん張る(という言い方が合う)のもいいのかもしれない。NYに住み続ける人々は、この期間を(人によってはなんのチャレンジとも思わず)乗り越えているのだ。ただ、ずっとこんな気持ちなのだろうか。NYに住んでみるという夢をひとまず実行に移し、その挑戦と結果にはまずまず満足する中でこのままNYを人生のメインにするのかどうか、色々なタイミングもあってそろそろ決め時と期間を定めていた事もあり、今自分を取り巻くNYの環境で一生過ごす覚悟ができるかという準備をしてみて決断を自ら迫り、泣きたくなるくらい悩んで、その選択肢をわたしは封じた。日本に帰る前提で「住んでみる」ことと「完全に移住」は違う。トランク1つで行ったり来たりする気軽さではない。NYを一生の生活のパートーナーとして考えた時、今現在のわたしにとってNYは、気分屋で才能があって、携帯を握って今か今かとメールの返信を待って、自分の事を1mmでも考えてくれているのかと毎夜打ちひしがれる、とびきりセクシーな、例えて言うなら結婚には向かない恋人のようなものだ。そう、責任を伴わない恋としては最高に楽しいのだが、生活レベルでもっと彼を知り彼の一部になりたいと追いかけていると、本来自分らしくいられるNYのはずが、自分らしくいられないNYに転ずるという矛盾が起こりうることを発見した。


NYに住む、日本人ふくめ外国人はいつも同じ問いを共有している。いつまで?ずっと?どの程度に。縁があった人、流れで生活になった人、NYに自らコミットして、セクシーだがタフでめんどくさい彼、NYに全身全霊でトライし続けている人もたくさんいる。NYを追うエナジーを持ち続けられること、そしてその姿勢そのものに充実感やハピネスを感じ続けられることは”ニューヨーカー”を定義する際の1条件であるのではと思う。わたしはと言えば、よりチャレンジを伴う選択肢を選ばなかった際につきまとう敗北感を漂わせながらも、今NYに住み続ける事を選ぶと、何かが叶うとと同時に、本来それを感じるために居るはずのNYマジック的なるものの魔法が解けて夢から醒めてしまい、最悪の場合はNYを嫌いになることもあるのでは、という予感を無視できなかった。少なくとも今は。タイミングで人生は左右する。それに、わたしは人生を構成する他の様々な要素、人生や思考にあらゆる角度から影響を及ぼすだろう違う種類の味わいにも人間として興味があり、そんなことを総合的に考えてしまう全く保守的な人間で、一言で言えば欲張りである。今のNY環境では、もしかしたらこの先そのいくつかの要素は、NYに居る事とトレードしなくてはいけなくなるのかもしれない、という覚悟が問われた。NYのことを誰よりも好きだと昔も今も思っているが、なにも天秤にかけずに迷わず優先順位の筆頭にNYを選択できる人から見れば、その程度のものだと言われてしまうかもしれない。そもそも愛は盲目という定説から言えばこの理性的な愛はもはやコンディショナルラヴ(条件付きの愛)である、と今はたと気づく。たとえ相対的に見て中途半端な”NY愛”だとラベリングされたとしても、何と思われたとしても、NYを嫌いになるよりは、この自分の中での絶対的な”好き”を今後も持ち続けたい。NYにわたしの人生を見出すのではなく、わたしの人生にNYという要素を人生の重要項目のひとつしてポジショニングさせることにした。何かを選択する際の基準となる、人生いかに笑っている時間が多いか、という指針からいっても、今はずっと住むというアプローチではなく、わたしなりの付き合い方をしていこうという決断に至った。


ただ、今選ばなかったとしてもNYは逃げない。人生を通してNYに恋をしているほうが楽しいではないか、という開き直りもある。人生を豊かにするものの強力なひとつは、時に生きがいと呼ばれる「好きなもの/こと」である。そして、NYとわたしには絶対に何かがある、と一生信じ続けられたほうが人生にハリがある。なんらかの形でNYと関わっているという確信が持てる、これだったんだ!という瞬間、誰にも分からないかもしれないその一瞬、身体中に充満する満足感を噛みしめている自分を、将来的に起こることなのに、なぜかわたしは既ににあったことのように感じている。中学生の頃の文集に書いた将来の夢は「夢を持ち続ける大人」だが、夢や希望といったものは叶う時よりも持っている時が一番楽しい、そして持っている期間のほうが叶う時よりもずっと長い。もちろん夢を持つだけでは叶わないのだが、夢を持ち続けることそれ自体がまず才能だということが少しずつ分かるようになってきた今日この頃。 自然と見た景色が多くなり学習していく中で、年齢というものは、初期設定としてどうやら夢を見る能力を少しずつ蝕むように設定しているようだが、15のわたしが描く大人でいるには、人生をこねくりまわして考えている場合ではなく、これからもすこしくらい、いや結構夢見がちじゃないと、と実感している。


こうしてわたしは4年前のわたしに巻き戻ることにした。現地に何年か住むと映画や雑誌でトリミングされているキラキラしたNYを期待した友達が来る際、それがそうでもないのよ、といかにも知っているかのような先輩面でNYのすすけた話をするのは定番なのだが、観光客の目線でいるほうがNYは遥かに楽しい。ちなみにNYの苦労話は、たとえ実際に苦労していても、その半分は実は自慢話であったりもする。NY市民が共有している苦労の”あるある”を自ら体感するほど、歪んだアプローチではあるが観光では味わえいないニューヨークらしさを経験できるから。皆競い合って目を輝かせて苦労話、自分の武勇伝について話す光景を幾度となく目にしている。もちろん、自分も負けずに参戦だ。しまいには、本当は大好きなのに”NY sucks....”と落胆するふりをしだしたら、まさしく現地風である。そう去年の、少なくともわたしにとってハードな経験、NYでストレスと付き合う事、ウッディアレンよろしく神経質になること、確実に相手に非があっても謝らない相手にわたしも謝らないなどという、日常的に頻発して起こる小さな抗争などとお付き合いする事は、実はNYの醍醐味、ハイライトであり、ハッピーアワーでささやかに気分転換する様は皮肉ではあるがまさしくNYに溶け込んだ、わたしがいつか夢見た姿であり、そんな自分へと辿り着いたという、これはちょっとした自慢話なのである。しかしながら、ひとときの経験以上にこれから一生、少なくとも当面そういった状況に身を置き続けるのかと言えば考えるタイミングがどこかで必要で、前述したように迷い迷って、わたしはいつでも無邪気にNY最高!と言い続けられる立場にまわることに決めたのだった。






ニューヨークジャーナル 168_a0028990_23161877.jpg

そうして、訪れる度に楽しくエキサイティングな場所、わたしが憧れたあの輝かしいNYに、観光客として滞在しようときめこんだ今、思い悩むバイオリズムから脱し、再び程よい能天気さを取り戻し、危うく当面は開かないかもしれない引き出しにしまい込みそうになったクリエイティヴィティの火種にふーふーと息を吹きかけ、West Villageのレジェンド、Bitter Endでライヴをします。しずかなる興奮。NY大好き。
by akiha_10 | 2015-07-22 03:55 | Daily thinking
<< ニューヨークジャーナル 167 >>