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ニューヨークジャーナル 110

NYナイトライフエディション 2

すっかり夏ですNY!
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NYの街と人が舞台となっている「SEX and the CITY」や「GOSSIP GIRL」のような、
恋も仕事もゴシップもパワフルに、お洒落にドラマいっぱい、「いかにもNY」の中に身を置いて生活している女性が本当にいる。わたしは密かに彼女達をXO girl(ゴシップガールより)と名付けているのだが、なにしろわたしもミーハーであるし、彼女たちの生命力溢れるタフなパワーに魅了されて、お声が掛かったらそのクルーズっぷりを垣間見せてもらっている。「今日が最後」と思って生きているとそのカリソメ感を楽しいと感じることもある。


わたしのような、たかだか短期の滞在者の観察眼は資料と場数が少なすぎて当てにならないのは大前提だけども、彼女たちと過ごしていて思うことがある。SATCが放映される以前はライフスタイルを表すカテゴリーはなく、ただ「独身貴族」だとか「パーティーアニマル」だとかいう表現に留まりそれぞれが自分なりにエンジョイしていたのだろうが、以後メディアに作り上げられたデフォルメされた「キラキラしたNYライフ、ニューヨーカー」はある種の女性達にとってHow to enjoyのサンプルでもありながら、強迫観念のように重くのしかかっているようにすら感じる。NYなんだもの、こうでなくちゃ、イケてなくちゃ、と。そして皆が同じスタイルを目指すものだから「恋も仕事も個性的にパワフルに生きるNY!」だったはずが、その「恋も仕事も~」のシールが先行していて、皆が装うベクトルの個性が飽和状態になり同じ恰好、同じライフスタイルを目指す事で、いかにも「NY的」に充実している装いはもはや個性的とは言えなくなったような。いつだってお洒落で常に携帯とシャンパン片手に忙しそうで、毎晩トレンディな場所に繰り出して、複数の男性とデートし、ゲイの友達とブランチ。金太郎飴ならぬキャリー・ブラッドショー飴はNYの眩いネオン下でゴロゴロところがっていて、そのスタイルは一昔前の「リアルニューヨーカー」から、皮肉にも現在は「観光者的」になってしまったのかもしれない。
むろんデザイナーやフォトフラファーとして世界中を飛び回っていて寝る間もないくらい仕事にも遊びにも没頭している、という本物のパーティーアニマルもNYにはたくさんいるけども、それより多い数で、SATC「的」な女性も多いような気がする。かく言うわたしも束の間、表面的にパーティーガールを装う「的」の代表でありますが、男前にならざるを得ないNY生活の中で時にXOXOとメールを打つことは女子鱗粉を促してくれなんだかウキウキさせてくれるのです。そして個性だとか流行だとかは別として、渦中にいる彼女たちのほとんどは心底愉しそうなので、なによりです。どのようなベクトルであれ、愉しそうな人といるのは幸せ!
短い人生、本人にとって愉しく精神的に健やかなのが一番です。
あらゆる「陽」のパワーはかならずプラスになる、少なくともマイナスにはならない、と思っています。


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XO girlは常に忙しいので連絡を取るのに困難な事が多々。平気で「酔っぱらってて」と遅れてきたり、ドタキャンもしばしば。比較的ゆるいわたしが言うのもなんですが、正直「いい加減」で、彼女たちの予定は未定、お互いにエマージェンシーとハプニングは織りこみずみ、彼女たちのルールで生きている。レギュラーメンバーではないわたしは「そういうものなんだなぁ」くらいに構えておくと、愉しくつき合える。ちなみに写真はXO gilr御用達、ミートパッキングエリアにあるDREAM HOTELのルーフトップバー。ロビーのレストランもおもしろい内装でござる。

そういえば、最近5人の友達と話をしていて話題になったのだが、
その全員が今のデートのお相手は「バー」で知り合ったとのこと。
出会いのひとつとして「バー」は超主流なんですね。
「I am on the market!(絶賛募集中!)」とバーに男女は狩りへと繰り出すわけです。
市場にいる、って表現。もうなんか侘び寂びゼロですご〜くわかりやすくて、いいよねぇ。


そういえば、ルームメイト探しの掲示板でよくよく見かけるのが「No drama」という文字。これは、ドラマを持っている人はご遠慮ください、ということだ。
この「ドラマ」というのは感情の起伏が激しく、いつも問題を抱えていて、常にオーマイガーオーマイガーと不平も涙も多い悲劇のヒロイン、比較的女性やゲイに多い性質のことらしい。
思うにXO girlはこのドラマ傾向が強いように思う。そして多くの男性たちはこのドラマ女を敬遠している。

本来潜在的にはわたしも「ドラマ」を持っているタイプだと思う。よいドラマ、わるいドラマすべてひっくるめて。ただ自分の「ドラマ」と長い間つき合ってきているので、コントロールが多少は上手くなったように思う。よいドラマは最大限引きのばしてロマンチックに、わるいと捕らえがちになるドラマは笑い飛ばす。
感情は主観だからね。

NYに来て、久しぶりに具体的な理由がなく静かに涙がでる夜が幾度かあり、
「圏外の街」のような圧倒的孤独の海を漂流するドラマに遭遇した。
心底「さみしい」と思った。
うわ、なんじゃこりゃ!さみしいぞぉ〜!!と。
でもそれは誰かと話す事などで解決できるようなレベルではなく、
むしろ誰かと話すことは病名を間違ったとんちんかんな処方箋のように思えた。
感情の神聖さが失われるような気がした。淋しさが心地よかったのかもしれない。
下降のスパイラルに傾くことはなく、
よくもわるくもないニュートラルなドラマを観察して、
ただ生きていることの淋しさとか儚さとか幸せがごちゃまぜになって、壮大な「不思議」に呆然となった。
誰しも皆圧倒的な淋しさに包まれているから、
人間的な繋がりやぬくもりや美しさに心を震わせるんだろうね。
いろいろ感じて、毎日幸せなのである。
by akiha_10 | 2012-05-30 07:44 | NY Journal
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