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page d-71  矛盾のお手当

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とても唐突ではありますが、
わたしは考えることが好きです。
主に、「なぜ生きているか」ということに派生する、
様々な不思議を考える。
思えば、創作をはじめたのも、ここがスタートであるように思う。
一般的に哲学と呼ばれるものかもしれないが
そういう風にすると少しとっつきにくい。
言う程知識があるわけでもなし、本の虫でもないならば、
ただ、自分で考えることが好きだ、としか言えない。















考え好きはあまり外では出さないようにしている(でも出してしまっている)。
個人的なものであるし、
物事を深く掘り下げたり、ましてや「なぜ生きているか」を問うなんて、
まったく今時ではない。
考えなくても、生きていける。考えても無駄だ。
考えている間に、もう時間は過ぎている。
正直どうでもいい。(だろう)
また、比較的馬鹿馬鹿しいことも好きなため、
どうしたうりゅう、と怪訝がる友人を想定して、真剣モードは恥ずかしい(でも漏れてしまっている)。
考えることそのものは孤独。
共感する欲望を抑えて、またひとりで考える。または、本をめくる。
そして時代と大勢からの置き去り感。まあこれは今更。
わたしにとって、放っておけない、どうでもいいことかもしれないこと。
というわけで、今回は個人的な独り言に近いのです。
場が和むかしらと、せめて写真はパンにしてみた。フェイク。ひひひ。
どうでもいいな、違うな、と思ったら、流してほしい。











旅を重ねて思うようになった、矛盾する感情。
特に、
空を飛んでいるとき、
海に潜るとき。
つまりは、地球、もしくは宇宙を意識する時。
もう、自分がとっーてもちっぽけな存在に思うのは同じなのに、
両極端に別れる、矛盾する感情。
「瓜生明希葉として生まれるのはこれっきりであるから、
できる限り味わいながら生き尽くそう」
と確固たる、わたし、個人を意識して、生を尊ぶ気持ち。
しかしもう一方で、
「こんなでっかい自然の中で、身体という容れ物借りて、
魂?みたいなのが、たまたまあって、全部たまたま発生して、
宇宙の塵のようなもんで、もうどうしうようもないな、なるようにしかならない。足掻くことなかれ、でっかい動きに身を任せるしかないですね」
という、個人の人生、という概念を半ば放棄気味に、
まるでたまたま吹く風や降る雨と同じ、
わたし(?)もそんなものだと自然と同一化する気持ち。


これは、なんなんだろう、
ぎゅっと抱きしめておきながら、ものすごく冷めているような、
すごく大事な一生のように思い、
一方で、ものすごく、たかが一生という感。
この矛盾。
「物事を語るのにはレベルがある」、
というヒントは池田晶子氏の言葉。
「個人」を意識している時は、主観になっていて、
わたしが、一応わたしに入り込んでいる。
瓜生明希葉という、小さい枠組みでの、
まあそこでは主役やらせてもらっての、というレベルでの感覚。
後者の場合、随分ズームアウトしている。
瓜生明希葉を、またわたしが、空から見ている。
大袈裟にいうと宇宙レベル。
両者は矛盾ではなく、同居していいらしい、ただ視点、距離が違うようです。
では、宇宙レベルにいる、わたし、とは一体。
だれやねん。
果てしない。
あれ、解らない。
というか、この分野に関しては、いつも、解らないで終わる。
あら振り出し。
なんかこう、ものごと表裏一体なので、
……スキスキスキスキスキスキスキ…ス…キ…?みたいな、
スで終わるか、キで終わるか、
という諦めのような区切りが大事であるような気がします。
こんなことを考えながら、
何もない所でこけたりする。









雑誌のコラムがきっかけで知った文筆家池田晶子。
とっつきやすい哲学的な視点、一貫してすっとしている考え、
明晰で切れ味のあるコラムにびびっときました。
いつか直に話を聴いてみたいなと思っていたところ、
今年46歳の若さで亡くなられた。
がしかし、生も死も続きものだ、という様な語り口からすると、
こちらは悲しむだけでは、
池田氏の著書になにかを感じた、とはいえないでしょう。






ちょっと次元が違って恐れ多いのですが、
著書「人生のほんとう」は、
わたしの楽曲、
「違う夜」で伝えたかったことに近い気がするのです。
逃げることでもなし、
考えすぎるでもなし、
心の持ちようとして。


「たかが一生、されど一生、戻って、たかが一生。」




おつきあい有り難う。
by akiha_10 | 2007-06-27 00:33 | Daily thinking
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