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page d-66    何度目の春

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もう何度目の春。
人はどうして、
春を基準に数えたがるのだろうか。

新学期やら、新生活やらの、
すこしばかりの興奮と、
あの、きつーい感じ、
いやーな感じも思い出したりて、
近年は随分心が落ち着いたものだと感謝する。










上京した春のこと。
ごったがえす人混みと、
バッグからあふれる新歓のチラシ、
誰だかわからない番号とアドレス。
ひきつって笑いつかれた、頬の筋肉。
無駄に膨大になった電話帳の、
あ、から、わ、まで下におろしても、
誰一人として、この気持ち、を話せる人がいない。
想像以上に自分が暗いかもしれないと自覚した。
本当に独り、を感じた時には、
どれだけ気が合うと思っている親友にさえ、恋人にさえ、家族にさえ、
解ってもらえっこない、と閉じてしまう。
耳が、くるっと、餃子になる。
この気持ち、を軽視されたり、
乾いた励ましを浴びてさらに奥まっていくくらいなら、
ただ過ぎ去るを待つのみ。
すこしニラがはみ出してきたら、誰かに話してみようか。
適当に楽しめている子や、
実家通いのひょうひょうとした子、
きゃっきゃっしている子を眺めながら、
なにより切ないのは
こういう気持ちになるのが、
自分だけではないだろうかと追い込まれることだった。
いちいち敏感になったりして、
自分はものすごく損をしているとおもった。







東京を生きるのに、好奇心が救いとなった。
場所とモノと食、にミーハーな、田舎者のわたしは、
大学で特定の仲間の中で漂うより、
ひとりで知っていく、ことのほうがむいていた。
一度「知らない」ということを知ると、
ものすごい飢餓感に襲われた。
綺麗な雑誌がたくさんあることが嬉しくて、
もっと知らないものがあるのでは、と探しては
高めの雑誌なんか頑張って買ってみたり、
眺める専用、洋書を買って自己満足。
もっと知りたい、もっと知りたい、と貪欲になった。
興味は自然と、掲載されている、
映画や旅にもうつっていき、百聞は一見にしかず、
色々と自分の中で拓けていく感覚が嬉しかった。
読みあさる、行きあさる、観あさる、着あさる。
だけどもふと、
じゃあ自分は何が好きかというと、首をかしげた。
好み、ははっきりとあるが、
とはいえ、そんなに好きじゃないかもしれない、と自信をなくして急展開。
絶望的な気分になって、全てが虚しくなって、
ええい、どうでもいいやい。と極端に冷えきる。

現在は、自分が今、実感として、楽しいと思うこと、それ全部を、
好きなこと、ととらえているが、調子がいいだろうか。











先日ザッシカフェ、というところで人を待っていた。
その名の通り、比較的クリエイティブな雑誌が置いてあるカフェで、
読みながら時間を潰せるわけだが、
そこでわたしは落ち込んだ。
久しぶりに手にとった、ある雑誌を見る瞳の、
キラキラ度数が、昔ほどではなかったからだ。
なんというか、その微妙な哀しみと、
危機感を、必死に友達に説明した。
好きだったこと、が、まあまあ好き、
になっていく恐怖。
好奇心の矛先が分散したと考えるべきであろうが、
生命力(生命欲)の薄まりのように錯覚してしまうのだった。




孤独感を紛らわす、「夢中」なこと。
本当に夢中なのだろうか。
夢中でいようとして、夢中になったのか。
ただ夢中なふりをしていただけなのか。
狩猟をしていた時代のように、
生き残ること、への「夢中」をクリアすると、
今度は「趣味」や「好きなこと」、
もしくは「仕事」や「家庭」というところで
やはり「夢中」を探して、でっちあげてでも確認したくなる。
わたし、ここに在り。と。
へんなの。
あなたもわたしも、ただ居るだけで本当は充分なのに。
孤独が地雷のように埋まった現代を、
夢中なふりして、だましだまし、孤独はないもののようにして走り去るか、
あるいは、はじめから孤独を上手に飼って、淡々と歩くか。








方言の残る新入生を電車で見かけた。
期待と焦燥を吊り革にぶらさげて。

「なにか探さなきゃ」
時間だけ持て余し、
ひとり閉店までスタバにいた、春の夜を思い出す。
by akiha_10 | 2007-04-11 00:31 | Daily thinking
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