<< page i-11  一目惚れくま page d-22   幸せフ... >>

page m-4   マンスリーパンフィクション 09

村上にとって、メンソールのような空気が秋のしるしだった。

バタバタと支度をし、飛び出るように家を出る。
早朝ならなおさら空気は澄んでいる。
単純に、地球にうかんだ同じ体積の空気をみんなで共有していると考えれば、
活動中の人が少ない早朝は、それだけ一人あたりに配分される空気は多く、
そんなつまらぬお得感もあって、村上は眠気眼をこすりながらも朝が嫌いでなかった。
贅沢な空気を深く吸うと、喉がひんやりした。
我に戻ると、手元の時計の針が挑戦的な角度になっていた。
エンジンをふかすように、身体の奥から緊急時エネルギーをむくむくとわかし、
階段をひとつ飛ばしで駆け上がる。
息がはずんで、喉のメンソールは乾燥で消えてしまう。
特にこの季節は通過が速い。
page m-4   マンスリーパンフィクション 09_a0028990_18415496.jpg

ひんやりとしたフロアにそこだけ浮かび上がる会議室。
一之瀬は、首だけ机にのっけて、亀のようにペタっとなっていた。
首のすぐ下に置いた資料に目を通せるわけはなく、
どこか一点に目を置いていた。
村上に気付くと眠そうに目線だけを上にやった。
「おまえさ、俺だから遅れていいと思ってんだろー」
「いや、これでも始発ですけど」
「ふぅーん」
一之瀬はようやく身体を起こして、やる気のない手つきでぶ厚い資料をめくった。
「あー帰ってウイイレやりてー」
「はいはい。はじめますよ」村上は流した。
実際、欠伸と同時に喋った一之瀬の言葉は母音しか聞こえなかった。

村上と一之瀬は同期であり、なにかの仕事の際にはよく組まされている。
相性の良さが弱点だった。
先月の大ヘマにしても、タイプが似過ぎているがゆえの落とし穴だった。
つめるところも、見落とすところも同じなのだ。
2ケ月前から準備していた「夏のパン特集」は、膨大な試食や読者アンケートもむなしく、
二人のちょっとした、社にとって重大なミスによって他の記事にさしかわってしまったのだ。
二人は互いが自分のようだったので、誰を責めるわけでもなく、
こうして休日の早朝から出社してリベンジを試みているわけだ。
二人と仲の良い上司のとし子が、挽回の場をつくるために編集長にかけあった。
今日中にまとめることがミッションだ。

夏ほど大々的ではないが、二人はこりずに秋のパン特集を組んだ。
夏に通いつめたパン屋のデータや作成した資料を、
なんとかして使いたいというのが、正直なところであった。
「編集部が選ぶおいしい秋パン」という見出しではあるが、
実際は編集部というか、村上と一之瀬が選ぶ、いや村上が選ぶ秋パンになるだろう。

それにしても、机の端にまとめて置いてあるパン袋の数は半端なく、さすがの村上もひるんだ。
「ちょっと、一之瀬も動いてよ」
パンを移動させ、資料と照らし合わせながら試食をし、評価とコメントをメモする作業から始まった。
パンをちぎっては食べ書き、ちぎっては食べ書き、ちぎっては食べ書く。
はじめはお腹に余裕もあり、楽しさがあったが、
次第に会話がなくなり、もくもくとした処理になっていく。
これは夏の時と同じ展開である。
「あーなんか学生んときのパン工場のバイト思い出してきたし」
一之瀬は遠い目をしてなにかに耽っている。
夏の村上一押しパン屋、ルヴァンの新作野菜カレーパンはコクがあって、期待を裏切らなかった。
しかし好きだからといって朝一から本格的に食べてしまったことを、
残り40数個のパンを見て後悔していた。
これも夏と同じ失敗である。
「なんかさー村上ってさ、天然酵母とか、発芽なんちゃらとか好きそうだよなー、無農薬とか無添加とか。
ナチュラリストっていうの?ま。俺からしたら、なんか、ただのジコマン。」
一之瀬の久し振りの発言も、村上の返答も、二人は目線を上げずに交わした。
「まーいずれもハズれてはないかも、ま、でもそのジコマンが楽しんじゃん?」
村上はもぐもぐさせながら母音だけ響かせた。
「ふうーん。村上さ、パンはシンプルでかたければかたいほど美味しいとか言っちゃうんでしょ、
俺、村上の好きなものとかだいたい分かってきたし」
一之瀬は作業を止め、机に並んだ袋をガサガサと開けてはのぞく、を繰り返し、
クルミパンやらドライフルーツパンやら全粒粉パンやら、
ハード系のパンを袋ごと村上の手元にスライドさせた。
「はいこれむらかみーこれもむらかみー、おっと、これも、むらかみー」
「は?ちょっと!一之瀬も食べてよ、そんで書いて下さいっ」
「俺もう腹いっぱいです。なんとなく書くのはなし?」
「そういうの、気持はわかるけど、とし子さんにバレるよ。編集長は騙せても、
としぼー姉さんは気付くと思うよ」
「だよな」
一之瀬はまた亀ポーズをとり、はぶてた子供のようにしぶしぶとパンをかじった。

空調のジーっという音、袋を開けるガサガサっという音、ペンシルの音。
パンを口の中で砕く音と、時おり一之瀬がいじる携帯のカチカチした音。
時計の針の音は、妙に速くリズムをきざむ。

空調がひと休みモードにはいると、それらのビートがさらに研ぎすまされて聞こえた。
気付くと亀一之瀬の寝息がかすかにしていた。
村上は一之瀬の顏のまわりに、今ある数のきっちり半分のノルマパンを並べてやった。
午後から編集しなくては、と村上は作業の流れを逆算して少し焦る。
「ゴホン」村上は一之瀬の耳もとで大袈裟に咳払いをする。
手元の時計の針は重なる手前であった。
                        (つづく)

page m-4   マンスリーパンフィクション 09_a0028990_1829115.jpg                        






今月のパン ルヴァン@富ヶ谷
by akiha_10 | 2005-09-19 19:30 | monthly
<< page i-11  一目惚れくま page d-22   幸せフ... >>