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ニューヨークジャーナル 162

その日、映像の最終打ち合わせでWest Villageのカフェに行った。
数年前から「街+フード+音楽」をコラージュさせた創作や活動ができないかと考えていた。具体的にHungry Kittyの構想がかたまってきた今年の春、「誰かキャラクターを動かせる人いないかなぁ」と探していたところ、いけちゃんを紹介してもらった。会うとすぐに意気投合した。好きな監督や映像の話でいつも打ち合わせが長引いた。いけちゃんもアニメーションや映像をちょうど勉強しているところで、創作意欲に溢れていて、それはわたしにとっても理想的だった。まずはモチベーションを共有する事が最優先だったからだ。テクニックや知識はとても重要だが、よい創作とは、創作への欲望とそれに向かう情熱、楽しさが先立つものだと信じているからだ。




「こういうシーンを創りたい」という浮かぶヴィジョンとアイデアを追いかけるように、具現化する方法を共に研究した。ただ「映像編集ソフトを上手に使いたい」という目的では学習速度は何倍も遅かっただろう。それは「英語をただ喋りたい」という目的で学習するよりも、「あのレストランでメニューを頼めるようになる」だとか「あの蚤の市でうまく買物ができるようになる」という自分の真なる欲望に突き動かされ、必要に迫らせた方が格段に上達が早いのと同じだ。うまくいかずに何十回も書き出したり、データのやりとりがスムースではなく行ったり来たりを繰り返し、いちいち細かくつまずいたが、少しずつ学んだ。不器用な箇所もたくさんあるが、今年の夏お芝居に書いた「40Carats」という曲の映像が出来上がった。アニメーションだけでなく、いけちゃんが「最近いいカメラ買ったけど撮ろうか?」と提案してくれたことで映像部分もぐっとクオリティが上がった。タイムズスクエアや5番街のティファニーの前で、極寒の早朝5時からノースリーヴを着て撮影した、冗談みたいな本気の遊びはエキサイティングだった。素人ながらに、欲しい絵、アングルを考えるようになって、不思議と映画を観ていて着目することが増えた。すべてのアングルに意図があり、それをどう描写したいのか、と映像が一枚一枚の絵の連続のように見えるようになった。
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https://vimeo.com/82052806






そうして頭が映像モードになっていたところ、面白い出来事があった。ちょうどその打ち合わせの帰りに大規模なロケをしている現場に遭遇した。NYではよく映画やテレビドラマの撮影をしているので、そんなに珍しいことでもないが、ちょうど自分の意識が映像に向かっていたものだから、どのように撮影されていて、それがどう映っているかなど、いつもとは違った視点で気になった。数分観察していると、そこで演じているのはキャメロン・ディアスやジェイミー・フォックスだということがわかった。数年前にもこのブログで書いたが、以前「The Holiday」のプロモーションで来日していたキャメロン・ディアスとジュード・ロウとパークハイアットのエレベーター内でたまたま一緒になったことがある。満員電車のような距離感でおふたりが前にいた。スターふたりと、わたしと友人以外はボディガードというシチュエーション、50階から地上へ上品に下降していく密室で少しだけお話もできた。たったそれだけのことだが、そのロケ現場でキャメロンを再び観た時、妙に親近感と縁を感じたという自分のどうしようもない図々しさは申し分なくNYに適合していると思う。




NYでは地下鉄でもカフェでも道端でも、誰それ構わず話しかける人が多いのだが(それは福岡で起こるシチュエーションに似ており、祖母がまさにその道のエキスパートである。)わたしもそれにならって「これ何の映画か知ってる?」とちょうど隣に居た人にたずねた。来年クリスマスに公開予定のミュージカル「Annie」のハリウッド映画版だった。主人公は黒人の女の子、音楽はJay Zと、現代版Annieだそうだ。NY的な定型文通り、会話の途中で急に思い出したかのように自己紹介をして、ジョーという名の白髪まじりの男性とその場でしばらく雑談をしていた。わたしの背後にあったテントにはモニターがあって、撮影している目の前の現場と、実際にカメラに映った映像を逐一観察することができた。「今、わたしもアマチュアながら映像をつくっているんだけど…」と編集ソフトについて話をしていると、ジョーはその手の話題に妙に詳しかった。すると「こっちに来たら面白いよ」と導いてくれ、ジョーはクルーのエリアに連れて行ってくれた。ジョーはAnnieクルーの一員だったのだ。



そこからは夢のような体験だった。ジョーはすべての映像を管理しているエンジニアで、いつどこで撮った、というものを全て記録して管理している。度々衣装さんや小道具さんが、時間軸に沿って装いに矛盾がないか、過去に撮影した映像を確認しにジョーのもとへやってきた。ジョーはクルーデスクで今撮っている何カメがどの映像で、何カメがどの映像で、という説明や、今まで撮った中で面白い映像などを観せてくれレクチャーをしてくれた。役者たちのリハ風景や、NG場面、「これ見ていいのかなぁ…」と思うところまでオープンに見せてくれたのだった。映画の現場は半分以上が待ち仕事、と聞くがやはりそのようだった。次の撮影のための日没待ち、役者待ち、照明待ちなどと、たった何秒の撮影に至るまでに膨大な作業と準備を要するようだった。その待ち時間でジョーはハリウッド映画事情や様々なことを教えてくれ、歩き回ってクルーツアーもしてくれた。たった数分前に出会ったわたしを、衣装さんや、照明、宣材カメラマンなどに紹介してくれて、その夜中クルーの中でハングアウトさせてくれたのだった。皆「明日もきっついな〜」と肉体的にハードなスケジュールに嘆きながらも、一人残らず、とてもいい顔をしていた。その日は寒く、身体を暖めたくなって「ちょっとコーヒー買ってきますね」と言うと「あまりおいしくないけど”ムービーコーヒー”あるよ」とジョーは言って、クルー用ケータリングテントにまで通してくれた。その薄味の”ムービーコーヒー”は格別においしく感じ、気付けば待ち時間にやってきたフードトラックからクルーに支給される、ワカモレチップスを勧められるがままに一緒に食べていた。
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有り得ないような出会いが日常にあり、求めれば、開かれ、与えられる。NYの醍醐味、アメリカの懐の深さに再び感激した。真摯に興味を持って進めば、手を差し伸べてくれる人がいる、しかもそのスピード感は他の場所で早々ない。これはわたしだけでなく、NYで意識を持って過ごしている人なら多かれ少なかれ誰でも体験していることだと思う。



クルーの人々の、"Stranger"であるわたしに対するフレンドリーさ、親切さにも驚いた。NYにおける「人との距離感」はパーティー文化、土足文化、さらには多民族との共生で鍛えられた「家の開放感」がその距離を縮めていると推測する。それが時折、文字通り「土足で踏み込む」デリカシーの欠如にもなるが、そのオープンさに着目するならば、日常的に自分の家に気軽に、土足で、他人をあげることは、家ならぬ心の扉の開放の表れともいえる。たとえ表面的であったとしても、常に受け入れ態勢がととのっている。家を開放しているから心が開くのかその逆か、どちらが先かは分からないが。NYに来てサブレットやシェアで学んだ彼らの「家」というものへの概念の違いはわたしにとって新鮮だった。NYにおける個人の境界線や、喜んでシェアするものの多さは、この家の境界線に由来するものではないかと思う。ニューヨーカーは一所に留まらず、物理的にも精神的にも柔軟で臨機応変だ。当然、別のところではとても頑固だが。



その夜、わたしはまるで社会見学に来た小学生のようになっていた。ジョーは「今からまだ数日ロケがあるから」と、マンハッタン内で何日にどこで撮影があるかという”コールシート”というロケ予定表をメールしてくれたのだった。もちろん、行った。いい大人が今更、”映画少年”のように夢中で通った。中でもミュージカルならではの大掛かりなシーン、メインキャスト、ブラスバンドやダンサー、エキストラなど100名以上が道で踊り唄うシーンは圧巻だった。監督のいる中枢のテントに招いてくださり、一番前に腰をかけるよう勧めてくださった。”ムービーコーヒー”を片手にキャメロン・ディアスの芝居を観た。数年前に間近で拝見した時も、実物のキャメロンの気取らぬ普通っぽさは好印象でありながら「スクリーンで観るとさらに綺麗よね」と友人と話した印象は今回も変わらなかったが、再び確信した。目の前で踊っているキャメロンと同時にモニターを見比べていたが、モニター画面にキャメロンの顔が映っただけで、鳥肌が立つくらい、その画面全体に魔法がかかったようにパアっと華やかになるのだ。既に世界中が知っていることではあるが、それはもう美しく映える。カットがかかった後も、自分がモニターに映ってスタッフが観ているのを承知でふざけて演技を続け楽しませる彼女に、周りが口々に笑いながら「Such a star!」とこぼしていた。なるほど、これが「ハリウッドスター」なんだな、と妙に納得した。




テント内には、ビルの上につり上げられた風船を操るエフェクトスタッフ、何台もの巨大なカメラを操作するスタッフが集まっていた。オートクレーンカメラというのはラジコンのように遠隔操作ができるようで、それを見事な手さばきで操作する職人スティーヴが隣にいた。衣装や大道具、小道具さんも熱気のこもったそのテント内でモニターをチェックしながら現場を見守る。監督の「アクション!」の合図と共に、それぞれがインカムで「もっと右右!」などと熱く指示をしながら、撮影が進む。2−3分に渡る大掛かりなシーン、それぞれのエキスパートの集中力が結集しているのを感じた。わたしは長いこと唇をかたく結んで、それをしないようにしていた。今までにあった葛藤や、執着、悔しさ、喜び、それら感情の鋭く尖った部分を、日常というヴェールの下層から呼び起こして、身体の隅々を一巡して摘んでまわって、一点一点を線で繋ぎ、すべてが繋がっているかのように信じはじめること、偶然を奇跡と取り扱ってひとり勝手に感傷的になることーはどうしたって起動してしまったのだ。曲の最後のサビまわしで、ラストシーンにむけて気持をひとつにするかのように、スタッフが一緒に「Tomorrow」を大合唱しているのを観て、感動を受けとめるバケツがいっぱいになってしまって、全身の細胞がパチンと弾けてしまって、大量の風船がビルから落ちてくるタイミングで、ついには液体となって目からぶわっと温かいものが溢れ出てしまった。その席に招いてもらった者として、それはあまりにも素人じみていて、田舎くさくって、すぐに涙を拭ったが感動が止まらなかった。それは1mにも満たない距離で、キャメロンやジェイミーがこちらを向いて踊っているからではなく、このシーンは、わたしが毎晩ずっと夢見ていたものだったからだ。「Tomorrow」というあまりにも疑いのない希望に溢れた音楽に、降参した。



わたしはNYに来た時にから「一流の映画の撮影現場を観たい」とずっと周りに言っていた。それは、自分が映画が好きだからでもあり、音楽でも舞台でもCMでもプロフェッショナルが集まった制作現場が好きだからであり、NYに来る当初から心がけていたことが「一流に触れること」であったからだ。アメリカの一流といえば「映画」は間違いなくその一つだ。その他にも、音楽、舞台、アート、レストラン、バー、洋服、そして人。自分のできる範囲で、それらの良いものに触れることを心がけていた。分不相応なことがほとんどだったが「明日は生きていないかもしれない」をエクスキューズに随分背伸びもした。もちろん、なにが良いものかを知るために、結果的にはそうではなかった事もたくさん試した。NYのすばらしいところは、一流に触れるチャンスが気軽に多くあり、また開かれていることだ。20-30ドルで一流のライヴを楽しむことができ、朝から並べばオペラだって20ドルで観られることもある、多くの美術館が無料開放日を設けているし、気合いひとつ、興味を持ってあたってみればかなりのことができる。ノリだけで飲むBud Light(若者に人気な、味も風味も値段もライトなビール)三本の代わりに、一杯の希少なグラスワインを飲み、なんとなく行く飲み会の代わりに一流フレンチレストランのランチにひとりでも行った。同じ100ドルの予算であれば、大量生産された服を買う代わりに、ヴィンテージショップで仕立てのよいクリスチャンディオールのブラウスを買ってみた。日常的なことを批判しているわけでは全くなく、一流を一度でも「知ること」がわたしにとって重要なのだ。そうして、ご活躍されているビジネス界の方やアスリートの方、クリエーターの方々となぜか直接お話できる機会も巡って来た。今回のプロフェッショナルなクルー、キャストによる映画製作現場の風景は、わたしがさんざん脳内に焼き付けていた映像のデジャヴュであった。




ジョーは薬剤師になるための大学をドロップアウトし、かねてからの夢であった映画関係の仕事を目指し、思いつく術をすべて試してこの業界に辿り着いたと言った。West Villageで彼のキャリアを一通り聞き終わるころには”ムービーコーヒー”はすっかり冷めきっていた。次の撮影準備が整いはじめ、監督が腰をあげるのを見計らって、根を生やしていたジョーもおもむろに立った。去り際に白い息と共に"Anything can happen."とそう残して。わたしはかたまった。それは、わたしが敬愛しているMary Poppins(ミュージカル版)に出てくる、もう何百回も聴いているだろう楽曲、どうしても心がうまく起動しない時に聴く、おまじないの曲のタイトルであった。


"Anything can happen if you let it" -自分次第でなんでも叶う。
監督の「アクション!」という声とともに、胸のあたりでまたなにかがじゅわっと弾けた。





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Tomorrow! Tomorrow! I love ya Tomorrow! 
Merry Christmas!
by akiha_10 | 2013-12-25 15:17 | NY Journal
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