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ニューヨークジャーナル 125

先月BAM(Brooklyn Academy of Musicライヴやオペラが随時行われている)で観たオペラ「Einstein on the Beach(浜辺のアインシュタイン)」が焼きついて忘れられない。

すごい!すごい!すばらしく問題作だった。
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オペラといっても、METで行われるような従来のオペラではなく演出家ロバート・ウィルソンが創るまったく新しいタイプのオペラ。なんと初演は1976年。時代はありとあらゆる変化を遂げているのに未だ新しいというか、先端すぎる。ストーリーらしいストーリーはなく彼いわく「アインシュタインの一生ではなく、彼を詩的に解釈する試み」。時間の経過、光の速度などを主題に象徴的シーンを用いて「アインシュタイの世界」を抽象的に表現していく。



「ミニマルミュージック」と呼ばれるフィリップグラスの音楽が相当やばい、脳がじりじり苛められる。天才的。コーラス隊が「ドミソドミソドミソ…」としばらく唄うと「ドミソシドミソシドミソシ…」といつしか拍子が変わり音が加算され響きが不穏になる。そうかと思えばまた一音加わり不協から脱出する、それらのコーラスのラインは指数関数のように増えて行き、こんなに音楽が数学に聴こえた試しはない!

彼はインド音楽、リズムを徹底的に研究しているようで(とりわけ強い関心を持ったチベット、今でも支援はライフワークのようだ)宗教的というか、インドのお経、マントラのようにも聴こえる。ほとんど展開しない禁欲的な音楽が4時間半休憩なしで続くのだ。もう、はっきり言って、この日ほど自分が凡人だと確信した瞬間はない、正直に言おう、だんだんイライラとさえしてくるのだ。脳みそのシステムに音符菌が侵入してひろがり、正常に組み合わさっていたピースが溶かされ剥ぎ落とされハラハラと胃の底に落ちてくるかんじ。そして今も頭の中にメロディが残っている、ああ、洗脳とはこういう感じなのだろうか。

1シーンもやけに長い、音楽同様、ダンスも観るほうが気が狂いそうになるほど同じことを繰り返す。演者も体力、精神的にコントロールを強いられるだろうということは想像にかたい。ルシンダ・チャイルズの振り付け(ダイアゴナル(対角線)ダンス)は音楽のフィリップ同様、おそろしくミニマルで禁欲的。ロボットダンスの1振りのような手を傾け首を傾け、一歩下がってはまた上がる、というような地味でまったく同じ動作を40分くらい繰り返す。ちなみに音楽もダンスも、その繰り返す単調さで観客を一種の催眠状態に導くことを狙ったらしい。ダンスミュージックなどにおけるトランス状態と同じ効果なのだろう。舞台装置もまた演者の動線に基づき計算された線や円が多用され幾何学的なイメージを残す。4幕あるうち、規則的にはさまるフィールドダンスというシーン(ステージいっぱいを使って唯一、のびのびとバレエダンスをする)になる度、観客のぎゅっと詰まった集中がいっきに開放され皆が大きく深呼吸をするような会場の空気をしかと感じた。(実際このシーンで各々お手洗いに行く人が多かった)。わたしは脳裏で「やさしいシーン」と名付け、いつしか心待ちにしていた。


このオペラは「待つ」ことも醍醐味なのだ。次第に展開を「待つ」からただ「居る」ことへの挑戦になってくる。自分に問いかけるのだ。ステージ、音楽、ダンスのアヴァンギャルドの集大成と言えるこの難解な作品を目の前に、「おや、これはどういうことだ?」と世界偉人漫画でくらいしか知らないアインシュタインにまつわる僅かな情報を総集結させてシナプス繋げてシーンの意味を解読しようと試みるのだ。そうして考えぬいてもまだ半分も終わらないので「終演後にどこのラーメン行こうかな」なんて計画できるほどにまで余裕が(←集中してないじゃん。)!

ロバートがトレーラーで「理解する必要はない、迷えばいいのだ」と言っているので多分これでいいのだと思う、いや、むしろ考えているうちは超凡人で「Don't think,Feel」のブルース流が正しかったのかもしれない。まあ、なんにしたっていい。普段わたしたちが3%しか使っていないと言われる脳神経も、よくわからないものが脳に入って来た「エラー」にもう0.5%くらいは飛び起きたのではないか。ディヴィッド・リンチの映画の観後感のようなヒリヒリ感は未だ消えず、4時間半の戦いの末、大変な疲労感と共に「もう二度といいや」と思った修行オペラが今「また観たい」になるこの中毒性は一体なんだろう!ブラボー!


by akiha_10 | 2012-10-12 05:10 | NY Journal
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